サイドハンドからの「左殺し」中日ドラゴンズ、小林正人育成コーチ

ウキペディアより

中日ドラゴンズ 小林正人育成コーチの経歴は

桐生第一高等学校
東海大学
中日ドラゴンズ (2003 – 2014)

プロ入り前

 1980年生まれの小林正人はいわゆる松阪世代である。桐生第一高等学校では、3年時に夏の甲子園大会に群馬代表で出場し、開会式で憧れの松坂大輔に頼んで写真撮影をしてもらった。2018年に松坂が中日に移籍し、広報として初めて同僚になった。

 東海大学に進学するが久保裕也(読売ジャイアンツ)の控えで、4年春までは1試合しか登板できず首都大学リーグ通算11試合登板し4勝1敗。

 2002年のドラフト会議で中日ドラゴンズから6巡目指名を受けて入団した。

プロ入り後の挫折

 プロ入り後2003年、2004年は1軍登板無し。大卒で2年間1軍登板無しは、クビを覚悟しなければいけない状態だった。しかも2004年に就任した落合監督は2004年のシーズン前に、2004年シーズン終了後に大量解雇を予告しており、小林はクビを覚悟したが、なぜかクビをまのがれた。

 同級生で高卒で入団した松坂はすでに50勝以上を積み上げており、東海大の同級生、久保も巨人で活躍、早稲田大卒の同級生、和田毅は新人王を手にするなど松阪世代が輝かしい活躍をする中、結婚し娘が産まれていた小林には焦りがあった。

 3年目もわずか4試合しか投げなかった小林に転機が訪れる。落合と一緒に就任した森繫和投手コーチから、オーバーハンドからサイドスローへ転向するよう提案された。それは左のワンポイントとして生まれ変われということだった。

サイドスロー転向後の活躍

 当時のセリーグは、阪神の金本知憲、巨人の高橋由伸阿部慎之助、広島の前田智徳など左の強打者がそろい踏み。最速130kにも満たない小林は、格の違いを感じ、すぐには結果を出せなかった。

 そんなある日、落合監督が「相手はお前を嫌がっているのに、自分で自分を苦しめることはないんじゃないか」という言葉が小林を目覚めさせる。

 セリーグの強打の左打者が自分を嫌がっていることを感じとれた小林は、結果を残し始める。阿部慎之助(巨人)との対戦では、27打数4安打、打率1割4分8厘、0本塁打と圧倒し「阿部キラー」と呼ばれた。前田智徳(広島)も小林を苦手にし、小林がマウンドに立つと自ら交代を申し出た。

 小林は左のワンポイントしてプロ野球界に生き残り年俸6,000万以上(推定)を稼げる選手にまで登りつめた。

引退後

 引退後の2015年より中日球団職員となり、広報部に所属、2017年に中日ドラゴンズ監督付広報に就任した。

 過去に球団広報からコーチに転身した例は少ない。中日球団は苦労人から這い上がった経験を持ち、人柄も良い小林正人に、活躍できずにもがいている若手選手の手助けを期待したのだろう。

 

 

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