ウキペディアより
中日ドラゴンズ投手コーチ候補、山本昌広はどんな人?
プロ入り前
出身地 神奈川県茅ヶ崎市
生年月日 1965年8月11日(59歳)
身長186cm
体重87 kg
1965年8月11日、体重4,200gで産まれる。1歳の時に自宅アパートから転落して死にかけ、頭蓋骨陥没骨折により1か月入院する。
中学時代は野球部の補欠、高校は日大藤沢高校に進学するが春・夏とも甲子園出場は無く目立った活躍は出来なかったが、1983年のドラフト会議で中日ドラゴンズから5位指名を受けてプロ入りする。
芽が出ないプロ入り後と野球人生の転機
プロに入っても2年間は1軍登板無し、3年目の防御率が27.00、4年目が16.20。ブルペンで必死に投げているのに、星野仙一監督に「いつになったら全力で投げるんだ?」と言われるほど球が遅く、常に130k前後の球速だった。
プロ5年目の1988年、山本はドラゴンズが野球交換留学として業務提携していたロサンゼルス・ドジャースに派遣される。そこでもドジャースの投手に「この投手は今すぐにサイドハンドにするか、さもなくばトラック運転手になるべきだ」と、見込み無しとみなされた。
しかしこの留学が山本の野球人生の転機となる。ドジャースの世話役・アイク生原と出会い、生原からは投手の基本である低めへのコントロール、スローカーブの精度の向上、その他生活習慣を厳しく指導された。さらにチームメイトのメキシコ人内野手から後の山本の代名詞「スクリューボール」を教わり取得する。
1988年のシーズン途中に帰国すると、先発の一角に加わり、5連勝(なおかついずれも自責点0)を記録し、リーグ優勝に貢献する。
エースとして活躍した20代
1990年には初の二桁勝利となる10勝をあげ、同じ左腕の今中慎二とともにダブルエースにのしあがっていく。
1993年には17勝をあげ今中とともに最多勝を獲得し、防御率も1位で年俸1億円を突破する。
1994年にシーズン自己最多の19勝を挙げ2年連続となる最多勝と初の沢村賞を受賞する。
1997年は、18勝を挙げ、3年ぶり3度目の最多勝と初の最多奪三振を獲得する。140k前後の球速での奪三振王の獲得はめずらしい。
20代の山本昌広はリーグを代表する投手として大活躍。ジャイアンツの斎藤雅樹、桑田真澄、槙原寛己の3本柱と、ドラゴンズの山本、今中のダブルエースの優勝争いは球界を盛り上げた。
安定の30代
30代も安定した投球で94勝をあげる活躍をする。山本の現役時代は、今中、野口茂樹、河上憲伸、吉見一起と言ったエースが存在し、山本は2番手、3番手の存在だったことも山本には大きかった。
山本の年代別勝星は、20代で79勝、30代で94勝、40代で46勝。
記録づくしの40歳以降
2006年9月16日の対阪神戦(ナゴヤドーム)でプロ野球史上73人目(84回目)となるノーヒットノーランを達成する。41歳1か月での達成は現在でもプロ野球の最年長記録。この年は11勝をあげリーグ優勝に貢献する。
2008年8月4日、ナゴヤドームでの対巨人戦で完投勝利しプロ野球史上24人目となる通算200勝を達成、名球会入りする。8月は4勝1敗の好成績を挙げ、史上最年長で月間MVPにも選出された。
2010年9月4日の対巨人戦で完封勝利し、1950年に若林忠志が達成した史上最年長完封勝利の日本記録(42歳8か月)と、2008年に自身が記録した最年長完投勝利記録を更新(45歳0か月)する。
49歳0ヶ月でむかえた2014年9月5日の対阪神戦(ナゴヤドーム)で先発し5回無失点で勝利投手となり、NPB史上最年長試合出場記録(48歳10か月)とNPB史上最年長勝利投手記録(48歳4か月)などの最年長記録を更新しする。
50歳1か月26日で迎えた2015年10月7日の対広島戦(マツダスタジアム)でNPB史上初の50歳出場・登板を果たしたことによって、現役生活を締めくくった。
現役引退後
引退後は野球解説を務めながら、母校・日大藤沢高校野球部の特別臨時コーチについたり、2019年、2020年はタイガースの春季キャンプの臨時投手コーチを務めた。
山本本人は「1シーズン、指導者として戦ったことがない。培ったノウハウ、勉強してきたことを還元したい。いつか、その時が来たら、全てをなげうってやる準備はしています」とコーチ就任に意欲を持っている。
クビ寸前から、野球殿堂入を果たした山本昌広の経験を、ドラゴンズの若手選手に継承する日が来ることを期待する。
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